プロローグ

 差し出されたパスポートに、入国管理局の男は少し目を見張った。
「…君、ひとりで来たのかい?」
 男の問いに、少女がこっくりとうなずいた。格別大人びているようにも見えない。むしろ、同じ年頃の少女と比べて、幼く見えると言ってもよいくらいだ。
「…いやあ、最近の子はすごいな。あっちには観光で、かな」
 少女は、ふるふると首を横に振った。
「…住んでいるんです。今回は、用事があって日本に」
 長旅に疲れたのか、はたまた一人旅に緊張しているのか、少女の表情は硬い。心なしか、顔色も悪かった。
 そりゃそうだろうな、と、男は内心でうなずいた。イギリスと日本。子供がひとりで行き来するには、ちょっとばかり遠すぎる距離だ。
 パスポートを返しながら、男はたずねた。
「案内を呼ぼうか。それとも、迎えが来ているのかな」
 少女は答えなかった。その代わり、ちょっと困ったような、曖昧な笑みを浮かべた。
 けれども男はそれには気が付かなかった。気に留めなかったと言ったほうがよいかもしれない。ひとりの少女を気にするには、彼の仕事はあまりに多忙だった。
 男が次の入国者のパスポートからふと目を上げると、去っていく少女の後姿が見えた。
 肩にさして大きいともいえないかばんを掛けて、少女はゆっくりと歩いていた。けれどもその小さな姿は、ごったがえする人ごみの向こうに、すぐに見えなくなってしまった。
(イギリスから来たにしては、少ない荷物だな)
 ちらりとそんなことを思い、男は目の前の客に意識を戻した。それきり男が少女を思い出すことは、もうなかった。